聖老人

その昔、朝のTV番組で、詩が朗読されるコーナーがありました。ある朝その番組で、詩の題名も作者もわかりませんでしたが、一部しか聴いていないのに忘れられないことがありました。その内容は屋久島の縄文杉のことだったのですが、それからというもの、頭の中は屋久島のことでいっぱいになり、屋久島の自然の音を録音したCDを買って毎日寝る前に聴いたり、屋久島の写真集を買って毎日見たりしていました。それでもまだ、詩の題名や作者はわからないままでした。でも屋久島へ行けばそれがわかり、屋久島の書店へ行けばその本が手に入ると思っていました。そして半年後に私は屋久島にいて、予想した通り、作者の本を手に取り、詩の全文を読んでいました。作者の名前は山尾三省で、詩の題名は「聖老人」です。

その頃、私には語り尽くせぬ思いがあり、その屋久島の縄文杉に会うことばかりを考えていました。そんな思い込みが現実になりました。縄文杉を前にして、語り尽くせぬ思いは言葉にはならず、ただその樹皮に触れるだけでした。何千年も生き続けてきた聖老人とわずか数十年しか生きていないちっぽけな自分。イメージしたその姿が、現実になりました。

聖老人
屋久島の山中に一人の聖老人が立っている
齢およそ七千二百年という
ごわごわとしたその肌に手を触れると
遠く深い神聖の気が沁み込んでくる
聖老人
あなたは この地上に生を受けて以来 ただのひとことも語らず
ただの一歩も動かず そこに立っておられた
それは苦行神シヴァの千年至福の瞑想の姿に似ていながら
苦行とも至福ともかかわりのないものとしてそこにあった
ただ そこにあるだけであった
あなたの体には幾十本もの他の樹木が生い繁り あなたを大地とみなしているが
あなたはそれを自然の出来事として眺めている
あなたのごわごわとした肌に耳をつけ せめて生命の液の流れる音を聴こうとするが
あなたはただそこにあるだけ
無言で一切を語らない
聖老人
昔人々が悪というものを知らず 人々の間に善が支配していたころ
人間の寿命は千年を数えることが出来たと 私は聞く
そのころは人々は神の如くに光り輝き 神々と共に語り合ったという
やがて人々の間に悪がしのびこみ それと同時に人間の寿命はどんどん短くなった
それでもついこの間までは まだ三百年五百年を数える人が生きていたという
今はそれもなくなった
この鉄の時代には 人間の寿命は百歳を限りとするようになった
昔 人々の間に善が支配し 人々が神と共に語り合っていたころのことを
聖老人
わたくしは あなたに尋ねたかった
けれども あなたはただそこに静かな喜びとしてあるだけ
無言で一切のことを語らなかった
わたくしが知ったのは
あなたがそこにあり そして生きている ということだけだった
そこにあり 生きているということ
生きているということ
聖老人
あなたの足元の大地から 幾すじもの清らかな水が沁み出していました
それはあなたの 唯一の現わされた心のようでありました
その水を両手ですくい わたくしは聖なるものとして飲みました
わたくしは思い出しました
法句経 九十八
  村落においても また森林においても
  低地においても また平地においても
  拝むに足る人の住するところ その土地は楽しいー
法句経 九十九
  森林は楽しい 世人が楽しまないところで 貧欲を離れた人は楽しむであろう
  かれは欲楽を求めないからであるー
森林は楽しい 拝むに足る人の住するところ その土地は楽しい
聖老人
あなたが黙して語らぬ故に
わたくしは あなたの森に住む 罪知らぬひとりの百姓となって
鈴振り あなたを讃える歌をうたう

            1988年11月発行「聖老人」山尾三省 野草社より

聖老人” に対して2件のコメントがあります。

  1. 齋藤克己 より:

    お願い

    1. katsumi より:

      ご覧いただき、ありがとうございます。
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